その4 帰国後鎌倉に移住~能の思い出

トロントで半年、ハワイで半年過ごした後、ぼくたち一家は帰国することになったのですが、帰国後に住んだ場所は鎌倉です。

ところが、この鎌倉の家が古い家で、しばらくはそこに住んでおりました。帰国の際、飛行機の中で耳を悪くして中耳炎を起こし、その後その家でずっと寝ているのを今でも鮮明に覚えています。とにかく飛行機の中で耳が裂けるくらいに痛くて泣き喚いた気がします。その耳の痛みが中耳炎を引き起こしたのでしょうか。ぼんやりと古い家屋で寝ていた時のことはうっすらと記憶の底に残っているのです。それが鎌倉での記憶の一番最初だと思います。

ところが、いつまでもその古い家に住んでいられないので、庭に新しい家を建てることになりました。そのため、一家は一時期そこを離れなければなりませんでした。

たまたま父の仕事の関係で、とある有名な作家のご家族と仲が良かったので、その年の春に他界した、その作家が別宅にしていた逗子のマンションの一室をお借りすることになったのです。

母とそこで寝ている時に「先生はお星さまになっちゃったんだね」と語り合ったのも記憶に残っています。あと、雨の中、父が自転車で駅まで行くのを見送ったことも覚えています。父も若かったです。逗子のそのマンションから逗子駅まで相当あったと思うのですが、毎日のように自転車で駅まで行き、そこから都内の大学まで通っていたのですから。

家がどのぐらいでできたのか忘れてしまいましたが、新しい家に移ってから本格的に鎌倉での生活が始まりました。

ぼくがお能を習わされたのもその頃のこと。

父が親しくしていた別の作家がたいそう日本の伝統文化に傾倒している方で、その方が、父に「息子には能を習わせろ」とアドバイスしたのだとか。父は前述の通り、アメリカかぶれの人だったし、母もそれまで能どころか歌舞伎すら見たことがないような人だったのですが、友人の作家先生に薦められたら、やはりこれは習わせなきゃいけない!と思ったのでしょう。ある晩、父はぼくにこう言ったのです。

「ケン、踊りをやるつもりはないか?」

きっとぼくに「能」といってもわからないと思い、「踊り」と言ったのだと思いますが、子どもにとって思い浮かべる踊りというのは、例えばミュージカルだとかそういう華やかなものだと思うのですが、ぼくもてっきりそういうもんだと思い、二つ返事で「やるやる!やりたい!」と答えたのです。

そして、翌週連れていかれたのが長谷の能楽堂でした。

なんだか、辛気臭いところだな、こんなところで飛んだり跳ねたりするのだろうか?と幼心に思いました。

騙されたと気づいたのは、能の練習が本格的に始まってからのことです。

まずは謡いから始まったのですが、これがとにかく難しい。

だって、なんてったって、まだ小学校に上がる前で、ひらがなすらきちんと読めないんですよ。だから、ほとんどすべて先生のお手本を忠実に再現するのみ。今でいう、すべて耳コピです。

ぼくは英語、インドネシア語、韓国語の勉強をしてきましたが、発音だけは褒められるのは、この時の耳コピ特訓のおかげだと思っています。

まぁ、ほんと、辛かった。泣きながら練習していました。本当に泣いていたんですよ。たぶん、月に2回ぐらいだったと思うのですが、先生も厳しい方だったし、マンツーマンで逃げ場がなかったし。

でも、おかげさまで何度か舞台に立たせてもらったのは良かったと思います。

特に「隅田川」の子方をやった時のことは良く覚えています。お墓の中でじっと出番を待ち、後見の方の合図でしずしずと出てきて舞う。確かセリフもあったように思います。母はその時の舞台を見て、泣いたそうです。まぁ、それはぼくに泣いたのではなく、物語に泣いたのだとは思いますが。

鎌倉の幼稚園に通っていて、小学校は御成小学校という古い小学校に入学しました。その間、ぼくは能の他に絵の教室と書道の教室に通っていた、というか通わされていました。で、そうそう。ピアノもちょっと練習したんでした。母が習っていたので、ぼくも一緒に通ったのですが、バイエルの上巻で敢え無く挫折したのでした。

思えば、その頃からなんだかんだと忙しい人生だったなぁ。

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装束を着ているので、一応それなりにサマになっています。