信仰の話

小学校4年になる時に、ぼくは鎌倉から東京に引っ越したのですが、その前に、もう一つ大切なことを書かなくてはなりません。

鎌倉に住んでいた時のこと、母が仲良くなった近所の女性とは家族ぐるみでお付き合いをしていました。子どもがいなくて、夫婦で静かに暮らしていたその人と、母が何がきっかけで仲良くなったのかはわかりません。けれども、彼女はとても精神性の高い人で、色々なことに興味があり、母はそんなところに興味を持ったようです。

そして、その彼女に薦められて、母は鎌倉にあるプロテスタント系の教会に通うようになりました。ぼくも、そんな母のお供で一年ほどその教会の日曜学校に通っていました。

しかし、どうも母は自分はプロテスタントではないと感じたらしく、その近くにあったカソリックに移り、そこで洗礼を受けたのでした。そして、ぼくもそんな母と一緒にカソリックに移って、そこで本格的に洗礼を受けるべく勉強を始めたのです。

ぼく自身も、地味でどちらかというと家族的な雰囲気のプロテスタントよりも、何となく厳格で格調高い雰囲気の(実際にぼくが洗礼を受けた雪の下カソリック教会は当時のぼくからするととてもゴージャスに見えました)教会の方がすんなりと受け入れることができたのです。

あと、カソリックに移った理由の一つに、プロテスタントにはないマリア信仰があったからというのもあります。マリア様の像を見て、素敵だなって子ども心に思ったのでありました。

さて、本格的な勉強といっても、まだ小学校低学年でしたから、それほど難しい勉強をしたという記憶はありません。しかも、ぼくの場合、なぜか半年勉強しただけで、すぐに洗礼を受けさせてくれたのです。母はぼくを教えてくださった神父様から「ケンちゃんはすでに神様と会っているので、これ以上勉強することはありません」と言われたのだとか。ぼくは全然自覚はなかったのですが。

そして、小学校3年のクリスマスに晴れて洗礼を受けることができたのです。

洗礼名は使徒ヨハネ。イエスキリストに一番愛されたお弟子さんです。ぼく自身もヨハネが大好きだったから、すごくうれしかったのを覚えています。

そして、今から思えば、この時の信仰が、その後のぼくの大きな支えになったのかもしれません。

今は自分の中で様々な葛藤(クリスチャンであることと同性愛者であることの矛盾みたいなもの)があって、すっかり教会から足が遠のいてしまったけれども、でも、自分の中に信仰心はあるし、今でも「めでたし」というマリア信仰のお祈りが大好きでたまに唱えているので、それはそれで良いのかなぁと思っている背徳的なクリスチャンなのであります。