鎌倉から吉祥寺へ~奇妙な三人生活と壮絶ないじめ体験記

ぼくは小学校4年になる時に鎌倉から都内、吉祥寺へ引っ越すことになるのですが、その話をする前に、読者の方にお願いしたいことがあります。

このブログを読んでいる方の中には、ひょっとしたらぼくの父や母のことをご存じの方もいらっしゃるかもしれません。あるいは個人的に母に会ったことがある人もいる可能性もあります。父はもう他界しているので、まだ良いのですが(いや、本当は良くないかもしれないけど)、これから書く吉祥寺での一年間のことは、かなり特殊なことなので、母と話したことはありません。

ぼくもその時のことを母に聞く勇気がないのです。

ですから、そのことを頭に入れて、読んで欲しいのです。つまり母に会うことがあっても、息子がこんなことを書いていたということを言わないで欲しいということです。それぐらい非常にデリケートな問題でもあります。

でも、この一年間のことを書かないとぼくの「個人の都合」にはならないと思うので、きちんと書きたいと思います。

 

さて、小学校3年まで鎌倉で過ごしたぼくは、小学校4年になる時に吉祥寺へと引っ越しました。しかし、その引っ越し先にいたのは、見知らぬ女性だったのです。なぜ母が一緒に吉祥寺に移らなかったのかというと、鎌倉の家の買い手がなかなかみつからなかったことと、家の様々な整理などもあり、すぐに移ることができなかったというのが表向きな理由だったようです。

父としては、ぼくを早く都内の学校に通わせたいというのと、職場が都内だったので、通勤のことを考えるとその方が体力的に楽だったというのもあるのかもしれません。しかし、仕事のこと以外はまったく何もできない父にとっては、家事をしてくれる人がいないと困るというので、その女性が一緒に住むことになったと父から説明を受けた気がします。

子どものころは、そのことについて特になんとも思いませんでした。今から思うと妙齢の女性が父と一緒にいて何もないはずがない、と思うのですが、当時はそんなことはほとんど考えていませんでした。ただ、母が一緒にいないというのはぼくにとってはそれはそれで寂しいことではありました。

しかも、ぼくは転校生ということで、その一年間は学校でもかなり厳しい状況に置かれてしまったのです。

思えば、人生で一番いじめを受けていたのはその一年間だったかもしれません。なぜそう思ったのかというと、その一年間の写真がほとんど手元にないからです。ひょっとしたら、その同居人である女性が管理していたのかもしれませんが、いずれにせよ、今ぼくの手元にあるのは、5年生になってからの写真ばかりです。

さて、その時ぼくがどういういじめを受けていたのかというと、例えば、家の鍵や財布などを取られて学校の物置のようなところの屋根に放り投げられたりするのは日常茶飯事でした。一番ひどかったのは、ガラの悪い女子に囲まれて「てめぇ、チンコついてんのかよ」とすごまれ、パンツを降ろされたことでした。これは本当に屈辱的な出来事でした。

転校生として映ってきたぼくは最初のうちは物珍しさもあり、みんなにちやほやされているところはあったと思いますが、一ヶ月もすると、途端にそれまで仲良くしてくれていた子たちが一斉にそっぽを向き始めたのです。その変わり身の速さにぼくは恐れおののきました。一体ぼくが何をしたというのでしょうか。ぼくが彼ら、彼女たちに何をしたというのでしょうか。まったく見当がつきません。

しかし、ぼくのちょっとしたしぐさや言葉遣いといったものが、彼らには気に食わなかったのかもしれません。

あの一年間をぼくはどうやって過ごしていたのか、自分でも良くわからない。

家に帰れば、母親ではない女性が待っていて、食事を作ってくれたり、身の回りの世話をしてくれたりしていました。母はたまに便りをよこしてくれて、「きちんとおばさんの言うことを聞くように」という指示がありました。ぼくもいじめられていることなんかは書きたくなかったので、当たり障りのない返事を書いていたと思います。

ただ、その時ぼくが何とかやっていくことができたのは、二人の人物がそばにいてくれたからです。一人は担任の先生でした。この時の先生はとても雄弁で、正義感あふれる女性の先生でした。今でも年賀状のやり取りをしているくらいお世話になりました。彼女がぼくのことをとても気にかけてくださったのです。

夏休みには家に呼んでくださったりもしました。きっと特殊な環境にいるぼくのことを先生なりに心配してくれたんだと思います。今でもその先生には本当に感謝をしていますし、そういう先生と知り合えたことはぼくにとってはとてもラッキーだったと思います。

そして、もう一人は近所に住む2歳年上の女性でした。彼女は同じ学校の先輩だったのですが、当時近所に住んでいて、一緒に学校に通っていたのです。あれはなんと呼ぶのでしょうか。同じ地区の人たちがまとまって歩いて学校まで通っていたのですが、その時に彼女と話をするようになりました。彼女は幼いころにご両親を亡くし、親戚のうちに預けられていました。お互いにそういう特殊な境遇だったことが、仲良くなるきっかけだったのかもしれません。

良く井の頭公園で遊んだり、お互いの家を行き来したりしていました。交換日記のようなこともやっていたこともあります。彼女とも今でも年賀状のやり取りはしているのですが、ともあれ、その二人の人物がぼくにとっては非常に大きな存在であったことは確かなようです。

たった一年間の出来事なのですが、その時のぼくには非常に長い時間のように感じられました。今こうして記憶をたどってみても、何かヴェールの向こうの景色を見ているような、そんな気がしてしまいます。それだけぼくにとっては印象的な(良い意味でも悪い意味でも)一年だったのです。

f:id:happyinkdays:20180419210754j:plain

f:id:happyinkdays:20180419210753j:plain

上の二枚の写真は、夏休みに、その先生の家に遊びに行った時のものです。まだ小さかった先生のお子さんたちとも仲良くなり、一緒に遊んだのも良く覚えています。

嫌なことはたくさんあったけれども、その分、人の親切を身に染みて感じた時期でもあったのでしょう。

でもね、不思議なことに学校に行くのが嫌だとは思わなかった。

あんなにいじめられたのに。これは大人になってからのぼくの推測分析なのですが、家の中であまり知らない女性と一緒にいる方がいじめられることよりも辛かったのかもしれません。でも、それを表に出しちゃいけないという葛藤もあったのでしょうか。

さて、この一年の間のことで、いくつか断片的に覚えていることがあります。

その一つは同じマンションに住んでいる年上の男の子のことです。

その子とどういう経緯で仲良くなったのかはすっかり忘れてしまったのですが、とにかく良く一緒に遊んでいました。で、そのマンションには当時にしては珍しく室内プールついていて、住民は自由に入ることができたのですが、良くその子を誘ってプールに遊びに行っていたのです。でね、ぼくはなんと、その子とプールの中でイチャイチャしていたのです!日に焼けた彼の体がセクシーだなと思ったこともあります。そして、じゃれ合っているうちに、抱き合っているような感じになったのでしょう。

彼はそこにセクシャルな感情は抱かなかったかもしれませんが、ぼくは欲情していたように感じます。前の日記にも書きましたが、すでにぼくは小学校2年生の時には自慰というものを覚えていましたし、その対象は男だったので、その彼にも似たような感情を抱いていたのかもしれません。

今となってはそれがどこの誰でどんな関係だったのかはすっかり忘れてしまったし、母に確かめるわけもいかいので、謎のままなのですが。

もう一つの思い出は父とのこと。

その日、なぜかぼくは突然父を驚かせたい!という強烈な欲求に駆られ、父がリビングのソファで本を読んでいる時に、後ろから「わぁ!」と驚かせたのです。普段は父は怒鳴ったり、乱暴なことをしたりせず、ちょっと怒るくらいでしたが、たまたまその時は父の虫の居所が悪かったのか、それとも何か難しい本を読んでいたのか、それとも考え事をしていたのかわかりませんが、ものすごく怒られました。「こら!!」と大声で怒鳴られ、持っていた本でいきなり頭を叩かれたのです。

それはぼくにとっては初めてのことでしたので、すごくショックで、「こんな家出てやる!」と大声で泣き喚き、外に出てしまったのです。

といっても行くところなんかなくて、屋上かどこかの片隅に隠れただけなのですが。その時、父が心配そうに探してくれる姿を遠くで見ましたが、しばらくぼくは家には戻りませんでした。そのようなことを断片的に覚えています。

ともあれ、この吉祥寺での一年というのはとても不思議な一年ではありました。

こういうことも今の自分の人格形成の何かに影響しているのかもしれませんね。